「身土不二」と「地産地消」。地味ながら豊かな食を象徴するこの2つの熟語が、私の中でいまぐらついている。あの日から。
ほんとうに困ったもんだ。農薬と放射能、いったいどっちがリスクが大きいの? 季節外れの外国産はやっぱり買う気になれないし、でもいくら大丈夫と思おうとしても、地場産のもの、露地栽培のものは、なんとなく不安がつきまとう。
大事に大事に土を育ててきた農家ほど、今回受けたショックは大きいに違いない。そういえば有機農法の生産者が、今回の汚染を苦に自殺したとのニュースがあった。福島には、ほかにも地場産無農薬の安心給食で有名な熱塩加納村というのがあったはず。あそこはいまでも、子どもたちに地場産の給食を出し続けているんだろうか。関係者の胸の内を思う。
生活クラブも、クラブ独自の基準(国基準の1/10)によっていては今後多くの消費材を扱えなくなってしまうことを懸念して、当面国の基準に従うとしている。そしていままでの生産者との絆を大切にとも。
考えてみれば生産者も被害者だ。消費者である私たちは、彼らとともにどこまでこの厄介なヤツを「引き受ける」べきなんだろう。食物や空気・水と一緒に取り込まれることで、放射線の線源が体内に至近距離でずっと居続けることになる。この内部被曝というヤツの素性を知れば知るほど、いまこのときに情に流された選択をして、それでよいのかと悩んでしまう。
いま注目のひと京大の小出裕章さんは、「大人は引き受けるしかない。子どもには安全なものを」と、原発を止められなかった悔しさをこめて言った。
ここまで汚染されてしまった東日本にあっては、どうしたってクリーンなものばかり集めるわけにはいかないのだ。買い占めの醜態はさらしたくないし見たくない。つまりは甘んじて受けるという気持ちも、いまは必要なんだろう。でも、それはあくまでも「甘んじて」、だ。新鮮だ、もう基準以下で安全だと洗いもせず葉物野菜をバリバリと食べていたTVのパフォーマンスは、観ていて気分がよくなかった。内部被曝を少しでも減らす努力は常に必要だろう。いくら「基準値以下の」食材であっても。丁寧に、洗って食べてほしかった。
何を食べ、何を食べないか。選択を迫られる日々。もし自分が生産者だったら、少しくらい心配があっても、わざわざよそで買ったりはしないだろう。でも、思いを込めて自分が作ったものをなんで不安と一緒に食べなくちゃいけないんだって、思うだろう。
何を食べるか。何を食べさせるか。むずかしい問題だ。作る人が善意で、食べる人が善意でも、解決しない問題が介在している。
世界中で原発に手を出してしまったんだもの。何もかもクリーンな世界なんてもうどこにもない。知らぬ間に垂れ流されていた現実が、過去にたくさんあった。そして福島以外にも、現在進行中の
こんな汚染がオーストラリアにあるらしい。
いろんな知恵を集め長い時間をかけて築いてきたものが、たった1度の地震で、いや原発の事故で、一気にぐらつく羽目になるなんて。ああ、原発の罪は重い。重すぎる。
足りる足りないのという、単なるエネルギー生産量の話じゃない。原発事故が日本に住む人すべてに不安感を配給し、多くの人から指針としてきたものまで奪うことになってしまったことを見逃してはいけない。これはでかいよ。文化の喪失につながっていく。
7月、市民ネットで食について考える講演会を企画中。若いお母さんたちと一緒に考えたい。