母やTさんを亡くしてから(なのか、それなりに年をとったからなのかよくわからないんだけど)、人生の進行スピードがものすごく速くなっている気がする(母やTさんのせいにしたくなるのは、いつも「ああもう母もTさんも本当に死んじゃったしなあ…」との同じ思いが必ず頭の中をめぐるから)。
毎日あれこれいろんなことを思っても書きとめることもしないから、すべては忘却の彼方、私自身の中ですら、些細な日常はまるでなかったことのように消えてしまう。そうやって人の時間は失われていく。過去にたくさんの人が生きて、たくさんの人が忘れられてきたんだなあ。この世界のほとんどは、失われたそういう思いでつくられているのか。
そんななか、人が支えにしたいと思う人が確かに存在して、その人の思ったことが別な人の記憶に確かに残ることがあるのは不思議なことだ。いいものって、人はちゃんと見抜けるってことなんだろうか。
夫がはまっている井坂洋子の本を「へえ、どこがおもしろいの」と手にとって、いま『永瀬清子』体験中(同時に井坂洋子も)。夜寝しなに読むだけなので、忘れては読み、読んでは忘れみたいな読書だけれど、なんだか心があったまってから眠りにつく感じかな。本と、あと音楽もそう、この2つは人間の辛い人生に与えられたご褒美なのかもね。まあ大変だけど、これ読んで(聴いて)また頑張って生きなさいってな感じで。ネットサーフィンはなかなかこういうものをくれないなあ。なんか「思い」のつまり具合が違うのかもね。
5,000年前のアイスマンも現代人みたいにおいしいものを食べたりおしゃれをしたり、恨み恨まれたり…らしいね。人生の基本て、やっぱ「生きてくだけでそりゃたいへん」なことなんだねえ。
で、その永瀬清子、まだ入り口だけなんだけど「書きたい」人だったのね。書きたい気持ちに素直に従って書く…なんかいいなあと心の奥がむずむずと反応。
でも「書きたいこと」ってなんかあった? TPPのことやら原発のこと、なんだか書こうと思うと思いがありすぎて、こんなことだけじゃないみたいになってしまって先に進めない。
ということで人生の中のほんの小さなひとこまで。
50代の終わり、校正業のくせに、あるフレーズをすっかり間違えて記憶していたことに気づいた。
「きをいつに」って、「軌を一に」が正しいのね。ず~~~~~~っと「機を一に」だと思い込んでいた。それもごていねいに意味までとっちがえて。「機」ってのはchanceで「同時に」だとばっかり。いやあ、間違ったまま使ったことだってあったかもしれない。
それがつい先日、原稿の中で「軌を一にして」とのフレーズに出合って「あ?」となって、修正前に「念のため」検索したら…。あらあらまあまあ、こちとらがはなはだしい誤解をしていたのねとまさに目ウロコで。
あちこちに同じ御仁はいるらしく、ネットには編集を生業とする方も数々お間違いのご様子がいくつも。
この軌という字は因縁が深い。「き」という読みのせいなんだか、車へんに几帳面の「几」がつくんだと私は習い始めから間違えていたのだ。黒板の字が見えにくくなるころきっと習ったんだろうなあ。ずっとこの字を書いていても、先生も誰も指摘してくれなくて、ハッと気づいたのはいつごろだったか。軌道の軌の字はなんで車へんに「九」なんだ?(ネットで漢字の成り立ちやら意味を調べるといろいろ出てくるのね。でもリンクする気力がただいまありません。皆様勝手に調べてみてね)
まあ、人の思い込みってのはいろいろあるんだろうけど。いやはや。
夫に「ずっと間違えて覚えていた」と話したら、「オレはその言葉を知らなかった」だって。ハハハ、よくやった。
(…と書いたことを夫に話したら、「知らなかったわけじゃないよ。「きをいつに」って言葉は聞いたことあったし、なんとなく「同じ時に」っていう意味だろうくらいには思っていた。漢字ははっきり知らなかったけどね」だって。なあんだ。それなりに話が落ちたと思ってたのに、なんか中途半端…)
2013年の3月も、無事に生きております。