突然、前に住んでいた家ではお風呂に入るたびに苦労していたことを思い出した。使っていたのは引っ越したときにホームセンターで買ったふろがまで、10年くらい経ったころにガスバーナーの着火がスムーズにいかなくなった。湯船に水を張って、さあ沸かそうと思ってもこれがほんとにひと苦労。毎度毎度なかなか火がつかなくて、スイッチの入れ方を工夫したり電気配線の接点を確かめたり、あげくはガンガンとあちこちをたたいたりと家族でワーワー騒いでいた。一発で着火した時にはそれだけでなんだか幸せな気分になれたっけ。
その前は排水の大騒ぎもあった。洗濯や風呂の排水でしょっちゅうつまるのが悩みの種だった(井戸の排水が開放系でここからどっとあふれ出す)。同じく引っ越してきたときに埋めた排水管だからつまるはずはないのにと思いつつ、あきれるほど長い掃除ブラシを入れては原因箇所をさぐり、怪しいところを掘っては管を切って(庭のぐるりに埋めてあった)、数年かけてようやく小さなコップが取り出された。井戸の排水部分から、前の住人が残していったプラコップが知らぬ間に入り込んだのだった。
蛇口をひねればすぐにお湯が出てくる暮らしの中に浸かっていたら、かつて自分自身が体験したストレスでさえ、すっかり忘れていた。ストレスの多い風呂に浸かりながら、「ああ、私はこの家から決して出ることはできないんだろうなあ。自分の家に住むなんて、決してあり得ない」と何度も思ったことは覚えているけれど。
あれからどのくらい過ぎた? もうあの家は遠い家になった。まだあそこに建っているかさえもわからない。記憶の中だけで建っている家。子どもたちが庭で段ボールハウスをつくって泊まり込んだ家。お墓に面した壊れそうな家。チャボが逃げ出して飛びまわった庭。チャボの糞で、リンゴが鈴なりだった。
ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』。夫が買ってテーブルの上に置いたままになっていたから、ちょっと手にとってみたら止まらなくなってしまった。「オレがまだ読んでないのに…」と言われたって気にしない。一気に読んでしまった。ああ、突然昔のことを思い出したのは、この本のせいだな。
人は変わるんだ。決してここから逃げ出せないと切羽詰まったそのときは思っていても、時間が経つとすべてが変わっている。
いろんなしんどい経験は、貴重な体験でもある。あとから同じ体験をしたいと思っても決してできるものじゃない。あがいてなんとか抜け出して振りかえってみたら、自分の中に他の人とは違う複雑な色あいを加えている、そんなものだ。経験したことはある日人に向かって語ることができるし、人の経験も尊重する気持ちになれる。
人はずっと同じところにはいない。時間が必ず変えてしまう。それは時に不安を抱かせもするけれど、生きていくうえでの大きな救いにもなる。
私が仕事に恵まれたり失ったりを繰り返しているうちに、とうとう友人たちが定年という言葉を口にする年齢になった。まあフリーの身には関係ない言葉だけれど。ちゃんとした仕事をしてさえいれば、この先もまだ需要はあることはわかっている。これからがフリーの強みだ。そういや過去の「不運」な出来事は、長い目でみたらそのあとの「幸運」の布石になっていたことを2度も経験した。あのときがあるから今がある…いいセリフじゃないの。
人生の辛い時間はあとでおいしい経験として生きるって、なんだかミラクルフルーツのような話でしょ(食べたことはないんだけれど、レモンがとても甘くなるんだそうね)。
本気で思えた幸福なひとときがありましたとさ。