とうとうその日がきてしまったのか、と覚悟もした。医者は「いつどんなことが起こっても不思議はない」といい、“あの”夫が、もしものときにはやはり独りではさびしかろうと病室に泊まり込みもした。不謹慎だが、別れの式はどんな形がいいか、夫婦でひそひそ相談もした。
しかし、話しかけても誰が誰だかわからない、そんな時期を乗り越えて、義母は「復活」した。点滴を抜かないようにとはめられていたあの憎きグローブともお別れして、きのう晴れて退院となった。看護婦さんには「ありがとう」のセリフまで、ちゃんといいタイミングで言って。退院してホームに戻る前、車椅子で病院裏の公園も散歩して青い空と懐かしい山まで眺めた(んじゃないかと思う。見えてたらね)。
でも、復活しても、あのほっかほかの白いごはんは食べられない。おいしいコーヒーも飲めない。周りにいるのは病んだお年寄りばかり。若いヘルパーさんはいつもいつも忙しそう。そこが義母の帰る場所だ。私たちの家には連れて帰れない。
毎日、仕事がのってくると「そろそろ行かなくちゃ」「何時に行こうか」「今日はサボってしまおうか」…。いろんな思いが頭の中で渦を巻いていた。夫もまるで同じ。この仕事を早くかたづけなきゃ次がもらえない。今つくらなきゃ個展に間に合わないし、こんなことじゃいいものなんてできない。夫婦でよくぶつかった。何を切って何を優先させるか。親の人生か、私たちの人生か。選べる人と選べない人の優先順位は。見捨てることで楽になるのか、苦しくなるのか。
義母の病院通いは「今日中に片付けないとまずいから、ゴメン行けない」のセリフで、夫に任せてばかりいたくせに、娘のための就活用の書類取りに(海外にいて自分では日程的にどうしてもできなかった)、わざわざ1日つぶして(まあ電車内でも仕事はしてたけど)大学まで出向いて行ったのはこの私だ。事前にあきれるほど面倒な手配もして。自分の中に優先順位が確かにあるんだな。
なにしろ子どものほうが先。義母は産まなかったが、子どもは確かに自分で産んだ。よーく覚えてるんだもの、しかたのないことなんじゃない。でも、老いて独りの人は…寂しいよねえ。いつか、私にもそういう日がくるんだろうねえ。
生活が安定していたら、ゆっくり休んで優しく老いに接してあげられるんだろうか。いやいや、仕事のせいにしてサボれるほうが、精神的には楽かもしれない。でも、老いた人を放っておいて仕事をするってのも気分がいまひとつ晴れなくて仕事ははかどらないのさ。
心が乱れちゃうと仕事にならないし。
ブログを眺めても、平安はやってこないし。
ホームの義母を訪ねる気力は今のところ湧かないし。
疲れてるんだよ、って自分に言って、時間つぶしのブログ書き。そうそう効率よく生きようったって、無理よ無理。いい子になんて、なりたがっちゃいかんのだ。
タイトルは、なぜつけたのかよくわからない。ふっと浮かんだだけ。たぶん元気になりたいんだろうね。